清子さんはおかっぱのよく似合うとても活発な女の子で、お父さんとお母さん、7歳ちがいの弟ノリ君の4人家族で幸せにくらしていました。
戦争がはげしくなるにつれて、空襲にあう心配のない田舎に親とはなれて移り住む「学童疎開」が、広島でもさかんに行われていました。清子さんのお父さんも、清子さんを疎開させる予定でしたが、その後、
「死ぬ時は家族いっしょがええ」
と言って、考えを変えました。清子さん一人を疎開させたくなかったのかも知れません。それで、清子さんは「残留児童」として本川国民学校に通っていました。
この日も、早くから夏の陽の差す暑い朝でした。耳にひびく大きなせみの鳴き声が、いっそう暑さを感じさせました。
「今日はお父さんの会社が電休日じゃけえ、学校が終わったら早よう帰ってくるんで」
「わーい。帰ったらみんなでトランプして遊ぼうね」
清子さんは家族三人に見送られて、同じように家の都合で疎開していない近所に住む仲良しの和子さんといっしょに、おどるような気分で学校に向かいました。
🍀【学童疎開】当時の本川国民学校では、個人で田舎の知り合いに移転する「縁故疎開児童」が約500人、学校から田舎のお寺などに行く「集団疎開児童」が約300人、親とはなれてくらすのがむずかしい、おもに低学年等の「残留児童」が約400人だったそうです
【電休日】戦時中の国内の電力不足が続く中、節電のために工場への電気の供給を休む日は会社も休みとなり、これを「電休日」と言っていました。