本川をつたえて - 19/21

2005年の夏、清子さんは公照さんと共に本川小学校をおとずれました。

母校本川国民学校は、清子さんの運命が大きく変わった特別の場所です。

被爆までの楽しくすごした少女時代のことを一番よく知ってくれている場所でもあります。

鉄筋コンクリートの外郭だけが残った校舎は、原爆投下の翌日から救護所となりました。多くのけが人がおしよせてきて、苦しみながら亡くなる人が後をたたず、グラウンドでは死体の山が何日も焼かれ続けたと伝えられています。

その被爆校舎の一部を残した「本川小学校平和資料館」には、全国から、多くの修学旅行生が被爆の様子を学びにおとずれます。外国からの訪問者もあります。本川小学校の子どもたちは、その資料館を地域の人と大切に守りながら、平和学習に真剣に取り組んでいました。

 

清子さんは、そんな孫のような後輩の子どもたちにどうしてもたのみたいことがありました。

「わたしはもう70歳をこえました。病気だらけのわたしに残された時間は長くはありません。わたしたち被爆者に代わって、次はわかいみなさんに核兵器のこわさと平和であることの大切さをぜひこの広島から発信していってほしいのです。お願いします」

と、話の終わりに頭を下げてお願いしました。