清子さんは、中学生からもらった手紙のことがいつまでも心からはなれませんでした。
(わたしの話を中学生たちにあんなにも真剣に受け止めてもらえた。わたしの体験を未来に生かそうとしてもらえている。そうだったのだ。こうしてわたしの被爆の体験を若い人に伝えることが、奇跡的に生かされた私の使命だったのだ)
(私はいっしょににげた和子さんのぶんも生かされているのではないだろうか?)
(命があるかぎり、わたしや和子さんの体験を子どもたちに話しておかなければ! わたしも死ぬまでに、何か社会の役に立つことをしておきたい!)
と、この時強く思ったのでした。
その後、清子さんは治療の合間をぬって、弱っていく体にむち打って、公照さんに助けられながら100校以上の学校に被爆体験を話しに行きました。そして核兵器のおそろしさと平和の大切さをうったえつづけました。
(次の世は平和であってほしい。どうすればそんな世界がつくれるのだろうか?)
と考えながら子どもたちに話しているうちに、やがて自分の気持ちの中のある変化に気づくようになっていました。
これまでは両親や親友の命をうばった戦争をにくむばかりでしたが、
(相手国にもこの戦争で亡くなった人がいて、その家族もわたしと同じような思いをして生きてきた人が大勢いたことだろう)
と、人の気持ちを考える範囲が広がっていることに気づき、「相手を思う気持ちの、こんな小さな広がりが“平和”に向かう糸口になるのかも知れない」と感じ始めていました。